19. 後回しのまるつけ

 やらなきゃいけないことがたくさんある。きっとみんなにもやることがいっぱいあって、当然、それらをこなして生活のレベルやリズムを作ったり保ったりしているんだと思う。私はやることをめいっぱい後に回している。だから生活レベル0だしリズムなんかない。期限が目の前に迫って、ようやく、弾かれたように動き出す。学校の課題を締め切り10秒前に提出して、届いた請求を期日当日に支払って、三日前のLINEに返信を送る。提出しない、支払わない、返信しないわけではない。最終的にはやる。洗濯も、掃除も、最終的にはやっている。今まだやっていないことも、こんな私だからきっと最終的にはやるんだと思う。

 最終的にやるんだからまあいいかと、そう思って、気にしなければ楽になるだろう。でも、なんか……気にしてしまう。気にした時点でやればいいのに、やらない。何なんだ、どっちかにハッキリすればいいのにと思う。

 書いていて気づいたが、私には「気にせずギリギリまで後回しにする or 気になるからすぐ片付ける」という、0か100しか選択肢がないらしい。カウンセラーに言われたことを思い出す。気にしながらも後回しにして、やっぱり気になるから、すぐとはいかないがそこそこのうちに片付ける……それでいいのか。今はギリギリに片付けているから、そこそこのうちに片付けるというのも目標にはなっているし。

 後回しにせずすぐに片付けるという模範解答があって、後回しにした時点でバツがつくと思っていた。けれど、もしかして、バツがつくのは片付けなかったり期限を過ぎたりしたときで、期限内に片付けられれば三角にしてもいいのだろうか。世の中そんなに甘くないのかもしれないが、自分の生活という部分においては許されるだろうか。もし許されるなら三角にしたい。気持ちがずいぶん楽になる気がするし、丸に近づく分もっと頑張れる気がする。

18. めがねごしの景色

 私はめがねをかけている。人生の6割を以上をめがねで過ごしている。コンタクトもたまに使う。レンズを介さないと、ほとんど何も捉えられない。文字も読めないし、時計も読めない。家族の顔もわからない。それでも、不自由はない。めがねがあるから。めがねがなくても、近づけば見えるから。ただの近視と乱視、不自由には至らない些細なものだ。この程度の目の悪さなら、伸びてきた前髪のほうがよっぽど生活の妨げになる。

 意味をもってめがねを外すときがある。めがねが濡れる大雨のとき。めがねが曇る寒さのとき。人の顔を見たくないとき。頭が痛いとき。意味もなくめがねを外すときがある。なんとなく。

 今日、意味もなくめがねを外して外の景色を眺めた。自然は、ピントが合わなくても楽しめていいなあと思った。めがねをかけ直したとき、違う景色が見えた。驚いた。当たり前だ、ピントが合えば見え方も違ってくる。そんなことは分かっていたし、そんなことでは驚かない。私が驚いたのは、色まで違って見えたから。めがね屋でレンズを新調するときにも体験して分かっていたことなのに、久しぶりに目の当たりにして驚いた。
 ほんのわずかな色の違いだった。裸眼で見た雪は、少し青とピンクで、白くて、明るかった。裸眼で見た景色は、全部少し明るかった。レンズで多少色味や明るさが変化するなんてこと、分かっていたのに。どうしようもなく悔しくなった。悲しくなった。今までの人生で見てきたものが、全部、本来とはちょっと違う。そのまま見ることはできない。

17. ぼちぼち

なんとなく始めたブログだからか、書き方も定まらないうちに更新が途絶えてしまった。内容もなんだかパッとしない。

ぼちぼち更新していきたいと思っています。内容がパッとするのはかなり難しいんじゃないかと思いますが、目指すだけ目指したいです。他の人のブログ読んでて感じる楽しさや面白さが、私のブログを読んだ誰かにも生まれればいいなと思うので。

早速、こう、パッ!とさせるために、美味しかった麻婆飯の写真を貼りました。パッとした内容のブログって、こういうことではない。でも、こんな写真が急に出てくるブログって好きなので、今回はこれで。